第1章 5.「掟」について

2020年09月14日  2022年07月22日

5.「掟」について

 

また、「法律」(広く〝法体系〟という捉え方でも結構です)についてですが、古えにおいては古代バビロニアにおいては「ハムラビ法典」とか、我が国においては聖徳太子の「十七条憲法」とかがありましたが、これらは元々この世に文字というものが考案され、〝ある社会的・国家的意志〟を「形あるもの」に固定しよう、ということになって出来上がったものです。

 

文字の発明以前には社会のルールは〝掟て〟というものではなかったのかなと思います。

「掟て」・・・、実に重い響きですね。

〝掟て〟に背いたら裁判などという七面倒臭い手続きをとることもなく、「即、リンチ(私刑)!」というイメージですね。

そして、〝掟て〟の世界では些末な部分に関する細かい規制はなかったと思われます。単純明快に人々に理解されなければならなかった関係上、複雑なものでは逆に世間に浸透しなかっただろうと思われるのです。

 

蛇足:妙な話ですが、姦通〝罪〟というのもその昔にはなかったのではないでしょうか。

その〝分野〟はその昔はすごく大らかだったのではないか、と思われます。

この罪の誕生により、男女の性的欲求が減ったのか、いや、増したのか、は分かりません! 「禁じられる」ことにより、更に燃え盛る恋、ということもあり得ますからね。

 

尤も、テレビドラマの「必殺仕事人シリーズ」などでは〝仕事人が仲間として他に誰がいるのかについて絶対に口を割らない〟、というシーンがあったので思ったのですが、既に文字があった江戸時代にも〝掟て〟はあり得るんですね(尤も、江戸時代は文字を読めない人々も沢山いたんでしょうから、その限りでは、掟ては文字の〝無い〟社会における規範だったということは部分的には言えるかもしれません。)。

この掟てというものはいわば限られた地域社会における〝道徳〟の一部が取締法規化したものでしょう。

 

昔の西部劇の〝インディアン〟の世界でも〝掟て〟が云々されていたように記憶しています。

「インディアン嘘つかない!」というのは嘘つくことは部族の恥であり、命と引き換えにすべき程の価値基準だ! という強い約束事があったのでしょう。

 

これは単に映画の世界だけの話ではなく、〝侵略しない民族〟にとっては、ごく当たり前のルールだったのではないでしょうか。

こうしてみると、〝掟て〟とは、民間人限りでの自然発生的な〝固い約束事〟という理解で宜しいのでしょう。

 

いずれにしろ、法律という規範は掟てなり曖昧だった道徳概念を成文化して不安定な規範を安定化させようとしたのだと思われます。

つまり、文字の発明は科学の発展に貢献したということもありますが、人間の行動規範の明確化に貢献したという面もある訳です。

しかし、そのことが〝幸〟だったか〝不幸〟だったか、は本書の後半で述べるとおりです。

 

・・・つづく