第1章 7.そもそも立法の必要性とは
2020年09月29日 2022年07月22日
7.そもそも立法の必要性とは
(1)ところで、法律というのはそれを成立させるべきそれなりの必要性があるという場合にだけ作られるべきものだと考えます。
単に「これ、作った方がいいんじゃない?」というような安易な雰囲気の下に作られるべきものでは決してないと思います。
即ち、「この立法をしないと世に計り知れない弊害・害悪が生じ継続する」というような「切実な必要性」がある場合でないと立法の必要性は少ないのではないでしょうか。
そこまでの弊害はないにしても、立法することによる「利」と「不利」の可能な限りの比較考量をして、少なくとも「立法したほうが良い」ということが〝明らか〟な場合に限られるべきだということです。
尤も、その「明らかであるか否か」、の判断は必ずしも容易ではないかもしれませんが、立法関係者が〝真面目〟に考えれば妥当な結論に至るのは決して難しいことではないと思うんですが、いかがでしょうかね(?)
あるいは、それこそ、その判断基準の根底にあるものはひょっとしたら〝道徳〟なのかもしれません。
安易に〝時流〟に流されてはいけません。尤も、今の日本の政治的動向は様々な〝外圧〟に支配されているようですから簡単ではなさそうです。
前に述べたように、法律は人々にタガをはめるものであり、自由を拘束するものですから、なるべくなら〝ない〟方が良いのです。
専制君主制でなければならない場合もあり得ますが(たるみ切った勝手連が跋扈・蔓延した社会においてはそうなろうかと思います)、なるべくなら世の中、窮屈でない方が良いですね。
言うなれば、そういう〝不安定〟な状態が〝道徳の活躍〟できる状況だと思います。
タガの緩み切った社会も困りますが、タガの強すぎる我が国の近隣諸国の政治体制はもっと困ります。〝程々が一番〟、ですね。
因みに、フランスのモンテスキューはその著書「法の精神」で〝アジア人とかアフリカの黒人は人間ではない〟というようなことを述べているそうですが、それと彼の〝キー・ワード〟である〝中庸〟とは一体、どう整合するんでしょうか? モンテスキューの活躍した時代は十八世紀であったとはいえ、それは恐らく現代社会でも西洋人の東洋人に対する似たような見方ではないのだろうか、という印象がありますね(そうでなくて欲しいです)。
(2)そもそも我が国において、法律というのは国会議員が発案して成案となる「議員立法」が本則であると思います。
日本国憲法にも書いてあるとおり、国会議員は全国民の代表であり(国民代表制)、議会制民主主義の下においては、彼らの意思が行政府に対して第一に優先されるべきだからです。
因みに故田中角栄さんは〝庶民宰相〟とか〝国民宰相〟と言われた人ですが、仄聞するところ、とにかく「自分は選挙民ひいては国民の為になることは何でもする」ということで、歴代首相の中で一番多く我が国の法律を作った政治家だと言われています。
「ヨッシャ、ヨッシャ」という言葉が懐かしいです。
陳情者に対して「アンタの気持ちは分る‼何とかするよ。」ということだったんでしょうね。
これは悪く言うと、選挙民に対する「人気取り」という見方もありましょう。
しかし、そもそも政治とはそういうものかもしれませんから、問題は〝出来上がった〟法律の中身が良ければOK、ということではないでしょうか。
残念ながら、私はその点の検証はできておりません。
いずれにしろ、少なくとも単に法律を〝イジりたい〟というだけの動機による立法は御免蒙りたいところですが、角さんにはそういういい加減さはなかったんじゃないでしょうか。
少なくとも「今」と比べると、足がしっかり地に着いていた政治家だ、というようなイメージがありましたから。
※今は、手続き的に〝不手際〟があれば全て悪いという〝揚げ足取り〟に命を懸ける薄っぺらい政治家・マスコミが目立ちますから、政治に醍醐味が感じられません。
彼らはただただ、騒ぎ立てて世の中に混乱をもたらせれば良い、という浅ましい根性の連中なのです。
情けない!「水清ければ魚住まず」という言葉を〝清廉潔白すぎる〟立場から非難してはいかんでしょう。マスコミ殿しっかりして下さい。
(3)これに対し、法律には、官僚が発案し国会で審議させて成案となる、というのもあります。
法律の大半はこのような「政府立法」ではないかと思います。
今の国会議員たちは、選挙区民との〝お付き合い〟に忙しくて、国民の意を汲み取って法案を熱心に練って良い法律を作り、国を良くしようとする人たちは余り多くなさそうに見えます。
これに対し、官僚は「何かしないと・・・。『ゴク潰し』と言われるのは嫌だ!」と言って、あっちこっちに目を配り、「こんな法律を作った方が良いんじゃないか?」という、必要性を余り吟味せず〟軽~い気持ち〟で法案を作ることが多いのではないかと思います。
そうしないと自分達の〝存在意義〟が見出せないのです。
これには前記のとおり、諸々の〝外圧〟も原因しているのかもしれません。
今の日本は外圧に弱いですからね。
即ち、官僚は「あえて仕事を〝作る〟」のが仕事であり、これに対し民間人なり民間企業は「〝生活〟するために仕事を作る」訳ですね。
両者はこのように決定的に〝立ち位置〟が違います。
生活に〝税金という後ろ盾〟があるかないか、ということの差は大きい!
因みに、私がたまたま仕事上、役所に行って感じるのは、特に昼食時間など職員が余裕綽々(シャクシャク)でエレベーターに乗り穏やかな雰囲気に包まれているということですが、民間企業ではそのようなことは余りないような気がします。
尤も、〝良い雰囲気〟の下で仕事をすることは望ましいことですが、その仕事の中身として本当に“必要”なことがなされているのか、という疑念が拭い去れないのです。
ところで、そのような法律が政府立法である場合も結局は国会審議を経るということになりますから、議員立法が少ない(政府立法の方が多い)ことを殊更云々する必要はないかもしれませんね。
しかし、結局、大半の政府立法は民間企業の株主総会で言えば国会議員の多数(大株主)による〝シャンシャン総会〟みたいなものではないでしょうか。
いずれにしろ、〝選良〟の皆さんであれば、きちんとお役目を果して頂きたい!
(4)また、これ程国際関係が複雑になり、〝ボーダーレス世界〟になると、国際関係を意識した立法もなさざるを得なくなります。
直近では、いわゆる〝安保法制〟などはそうですね。これは、実は既存の、
① 自衛隊法
② PKO法
③ 重要影響事態法(旧:周辺事態法)
④ 船舶検査活動法
⑤ 武力攻撃事態対処法
⑥ 米軍等行動関連措置法
⑦ 特定公共施設利用法
⑧ 海上輸送規制法
⑨ 捕虜取り扱い法
⑩ 国家安全保障会議設置法
という一〇の法律の改正と「国際平和支援法」という新法からなるものです。
この一連の安保法制は国際情勢が緊張度を増す中で国の存立をかけた当然の手当だと考えます。
それ以外にも、関税法、移転価格税制を司る税法などもそうです。
関税とは、元来、自国の産業を保護する為に外国からの輸入品の売値に所定の税金を加算し、その実質売値を底上げし、それにより〝相対的〟に割安な国産品がより売れるようにしようというものです。
今(平成三〇年八月前後)、米中が〝酷い程〟の関税バトルをしています。何か品がないですね。
移転価格税制とは、普通なら五〇〇円で売られる商品を、海外の関連子会社に格安で販売して、日本の親会社は売上と法人税の圧縮を図ろう、片や、現地の関連子会社は低い法人税だから、この商品を高価で売っても税金が安くなり、結局、親子間全体では納税額が少なくて済む、というのは〝ケシカラン〟、だから、親子間でも独立した通常の価格で取引がなされたものとして、国内でも〝適正〟に課税しようとする税制です。
これらは、租税回避自体が〝悪〟だとした場合、それが立法されてもしょうがないな、と思います。
これらは一国内だけの問題を超えて他国間にまたがるものですから、むしろ情報を沢山持っている官僚の皆さんに期待せざるを得ないかもしれません。
元々、優秀な頭脳を持っている人たちだから、その脳を本当の意味で有効に使っていただきたいと思います。
どうか〝血税〟を有効に生かして下さい。
・・・つづく